日本での環濠集落の流れです。
大変勉強になりますね。
環濠集落は朝鮮半島南部でも見られ、北九州では縄文時代晩期(前4世紀)の環濠集落がある。縄文人のムラは環濠を形成しない傾向にあるので、環濠集落は稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ波及したと考えられている。
古代
弥生時代前期末以降に発達する環濠集落は、濃尾平野以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた水争いなどの村落間の戦いに備えて独自に成立したのか。そのころ、福岡市の板付遺跡と大阪府高槻市の安満(あま)遺跡、京都府中郡峰山町扇谷遺跡などに環濠集落が現れる。板付では復元幅2メートル以上、深さ1メール以上の断面V字形の溝を、長径120メートル、短径100メートルの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。扇谷遺跡では、最大幅6メートル、深さ4メートルの環濠か、長径270メートル、短径250メートルでムラを囲っている。これらの遺跡からムラを防御していることが考えられる。また、北部九州や近畿地方などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生中期以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400メートルに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。大阪府の安満遺跡や池上遺跡、奈良県の唐古・鍵遺跡などが上げられる。
低地に作られ、通常は堀の外側に掘った土を盛った土塁がある(対照的に、中世の土塁は堀の内側にある)。ムラの内部と外部を区別する環濠を形成する目的として、外敵や獣などから集落を守る防御機能を備えることが考えられている。堀は二重・三重の多重環濠となることもあり、長大な環濠帯を形成しているものもある。水稲農耕に必要な首長権力や、共同体の結束強化、内部と外部での階級差を反映しているとも考えられている。また、水堀の場合には排水の機能をもたせることができる。
愛知県の朝日遺跡は、弥生時代中期の集落であり、環濠集落のなかでも最も防御施設の発達した集落として知られている。集落の外側に大濠をめぐらせて、その土で土塁を築き、その上に柵をめぐらし、その外側に三重の柵をめぐらし、この三重の柵に逆茂木を外側に向けて打ち込んでいる。
倭国における王権形成期とされる弥生時代中期には防御的性格を強め、高地性集落とともに、王権形成過程の軍事的動向を反映していると考えられている。王権形成が進み古墳時代に入ると、首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体される。
発掘調査によって、土塁の上にはピット(柱穴)が検出されることがあり、柵列があったと思われる
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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